お世話になった方々

2013年10月 4日 (金)

Go!カナディアンファーム 最終回 そして新たな出発へ

「植村さんは人生急いでいるんですなぁ~」

その言葉が結構身にしみた。

うすうす分かっていたけど、やっぱり、っていう感じだったけど。

でも自分はもう40代。オヤジ街道まっしぐらで、頭は薄くなってきているし、運動してないから足腰弱ってきているし、食わせなきゃならん家族はいるし、親は年老いていくし、子供は大きくなっていくし、その割に自分と店はなかなか成長していかない。

焦るの仕方なくね?

昔、開口 健が「悠々として、急げ」なんて言ったもんだから、それを真に受けて今まで15、6年やってきたけど、自分としては悠々としてばかりいた気がする。

それなのにハセヤンからは「そんなに急いでどうする?」みたいな事を言われ、自分は尚更迷ってしまった。
ファームの諸先輩がたは多かれ少なかれ、自分の道に迷ってここに来たんだろうけど、ハセヤン、というデカイ、そして得体の知れない底の深さを知るにつれ、自分の非力さを嫌、というほど思い知ったのだろう。そして自分もその中の1人だった。

その夜はなかなか寝付けなかった。


朝_。
カナディアンファームの最終日だ。
この日の夕食は自分が作る、と決めていて、前日からフォン(出汁)を作り始めていた。
鶏ガラと海老の殻を炒めて、豚の頭と昆布、ファームのくず野菜なんかをどっさり使ってグツグツ、コトコト煮込んだものだ。
ずーっと火にかけてたもんだから、あまりこういう事に慣れてない他のスタッフからはやや冷ややかな目線を浴びてはいたが。

昼間まで作業を手伝い、時間を貰って車で買い出しに出かけ、久しぶりに娑婆に出た雰囲気の面持ちでスーパーに入り、「何でもあるんだな、スーパーって」と改めて感動しながら食材を買い込む。

帰ったらハセヤンは自分が勝手に買い出しに出かけて作業をすっぽかした事にちょっと不満そうだった。
せっかくわざわざ極寒の中、基礎工事を教えてやろうと思っていたからだ、と思う。
まぁ、仕方が無い。黙って厨房に入り、夕食の支度をする。

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鋳鉄製のフライパンを用意する。

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アサリとイカ、真鱈を下処理して…

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パプリカの皮を剥き、

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海老やら豚肉やらを炒め、米と玉葱を炒め、フォンとトマトの角切りを入れ、鱈のぶつ切りやらアサリなどを入れて炊いていく。
厨房の中では出来上がりを待つハセヤンと友人が酒盛りを始めている。


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そして…


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遂に完成した。「俺のパエリャ、カナディアンファームスタイル」
サフラン無し、上火なし、その他色々無し、という条件下の中で、
自分が出来る事の全てを出し切った料理だった。
これはある意味ハセヤンに対する挑戦と、感謝の気持ちを込めて作った作品だった。

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パエリャを食べたハセヤンは自分の手をギュッと握り、
「旨い。ありがとう」
と言ってボロボロッと涙を流した。
自分は驚いた。
今まで自分の料理を食べて感動して泣いてくれた人なんか居なかったからだ。
と、同時に自分もこの五日間の苦労や、寂しさ、楽しさ、緊張感などがほぐれ、充実感と共に
涙が出てきてしまっていた。

そして自分はやっぱり料理が好きで、自分には料理しかないんだ、料理を続けてきて良かった、とつくづく身に染みた。

極寒の八ヶ岳の麓、暖かい丸太小屋の中で、大の男二人が手を握り合いながら泣いていた。

越中谷さんにそれを見られて恥ずかしかったが…f^_^;)

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次の日、カナディアンファームに別れを告げた。
越中谷さんからお土産にパンを頂いた。


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帰る道の遥か向こうに富士山が見えた。懐かしくてたまらない。
家にすっ飛んで帰った。

その夜久しぶりに家族とささやかな夕食を共にした。すき焼きだった。
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こうして僅か五日間のカナディアンファームでの修行が終わった。
で、何か会得出来たかって?

まぁ、自分への五日間の休息になっただろうし、料理への新たな情熱も湧いたと思う。
スモークサーモンの仕込みも見れたし、大工仕事や土方仕事もやった。薪割りもした。ゴミをなるたけ出さないやり方も学べた。
石窯もじっくりと見れたし、満天の星空も見れた。

だけど一番の収穫は

ハセヤン、という師匠となり得る人に又出会えた事だった

なかなか歳をとってしまうと尊敬できる男に出会えない、というか、認められない事が多くなってしまうのだが、
その中で自分はラッキーだったと思う。そして自分も周りから尊敬される男に少しでもなりたいと思う。

その後、自分はカナディアンファームへ行ったか?

その後も季節に応じて足を運んでいる。最初の時みたいに長くは居れないが、GWを利用したり、秋に出かけたりしている。
GWの時は越中谷さんからパンを教わり、ハセヤンから釜場を任せられたりした。もちろんまかないも作った。

そして今回、ハセヤンのスモークサーモンを熱々万歳!でも販売する事になった。

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だから若者よ、カナディアンファームへ行け。お客さんとしてではなく、アルバイト、としてでもなく、
修行としてカナディアンファームへ行きなさい!必ず何か得られるはずだ。

Go!カナディアンファーム‼

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2012年4月19日 (木)

おめでとう!りえ先生

末っ子のメイを小さい事から看てくれていた保育園の先生が今回ご結婚される事になりました。

りえ先生と未来のダンナ様です。

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ダンナ様はナント、イタリアンのシェフ!
イタリア各地を修行中の身らしく、今回も南イタリアの方に行かれるとか。

りえ先生も同行されるようで、羨ましい事!
出来れば旅行バックにオイラも詰め込んで連れてってくれ~い!

数年後にはきっと素晴らしいイタリアンのお店が御殿場にまた一軒出来ることでしょう。

そして、りえ先生は素敵なマダムとしてお店を切り盛りしてくれるに違いありません!

りえ先生、イタリア語頑張ってや~。

おめでとう!& ありがとうございました!

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2010年12月 6日 (月)

笑いながら泣きやがれ

しばらく見ない内に、富士山に雪が積もっていた。ありゃま!

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下ばっか向いてないで、たまには上を向いて歩かなきゃナ。

そして先日は高尾祭だった。この祭りが終ると御殿場は本格的な冬に入る。

夜仕事が終わってから甥の「真ん中」と行ってみた。申の神様か商売の神様の祭りだと聞いていたので、最近5~6年行ってないな・・・とやや反省していた。

その昔は御殿場の冬の祭りの代表格で、祖母や祖父によく連れられて来たもんだが、狭い参道を人がギュウギュウと詰まり、小さい自分はどこかのオバサンのでかい尻に埋まってしまい、息が出来なくて初めて祭りで死にそうなった事を思い出す。その後「尻フェチ」になったのは言うまでもない・・・

高1の頃には、いっぱしの不良ぶって屋台の焼きハマグリと枡酒を売る店に潜り込み、他の親父たちと混じってドキドキしながら酒をすすった。今思えばなぜ店の店主や、他のオヤジに怒られなかったのが不思議だ。たぶん祭りの時くらいは無礼講、みたいな感じだったのだろう。良い時代だったんだ。焼きたてのハマグリの香ばしさと、木の香りがプ~ンと漂う酒の相性が抜群だった。

そんなハマグリ屋台もいつか消えてしまって久しい。今回も店が終ってから行ったせいか、閑散としていて、テキヤも片付けに入っていた。昔は明けがたまで営業していたと思ったんだけどな~。「真ん中」は酒が飲めずにがっかりしていた。コンビニで缶ビールを買ってやったら喜んで尻尾をふった。

高尾祭の恒例行事といえば他にもあって、祭りに行った帰りには近くの親戚の家に必ず寄って、ご馳走になっていた。母親の兄の家で、建設業を営んでいたせいか、高尾祭の日には必ず熊手や大達磨を買い込んでTV台の上にどっしりと置いていた。親戚や職人さんたちが大勢集まって叔母特製のモツ煮や漬物をつまみにワイワイと飲っていたのを思い出す。

この家のモツ煮は今まで食べたモツ煮の最高峰で、叔母に幾度となくレシピを聞き出そうとしたのだけれども、いつもやんわりと話をはぐらかせてしまっていた。要はとにかく丁寧に、かつ徹底的にモツの下処理をするのだそうだ。コツはそのくらいだったのだろから、叔母は教えるのが恥ずかしかったのかもしれない。でも多分、そこの所がモツにとっては最重要なんだろう。

大勢の職人さんに囲まれて上座に社長である叔父がどっかりと座り、あれこれと指図していた。自分もテーブルの端に座ってモツ煮やら刺身やらをちゃっかり食べながら大人の会話に混じって楽しんでいた。

今でも大工さんやら、映画の技術さんやら、その他の無愛想ないわゆる「職人さん」に自分はウケが良い、というか結構すぐ仲良しになれるのには、この時の「修行」が案外役に立っているのかもしれない。社長の叔父も「頑固一徹」を絵に描いたような人で、すぐ怒るし、不器用で融通が効かなく、子供への愛情表現もヘタクソな昭和ひとケタ?世代の人間だが、その心の内は本当に優しいオッチャンなのだ。自分もこのおっちゃんやら祖父やらの血を僅かでもひいている所があるので、変に職人みたいにこだわったり、そのせいか知らんが商売下手だったり、顔が無愛想なので他人に誤解を受けたりする。損な血筋なんだ。本当は俺めっちゃ優しいんですけど・・・( ´_ゝ`)フーン

閑話休題(どうでもよろしい)。

やがて大人の会話に混じるのも飽き、腹も膨れると向かいの部屋に行く。そこは長男のシンゴちゃんの部屋だった。彼はウチの出稼ぎスタッフ兼ミクシイの管理人でもあるサオリンの叔父だ。

自分より8つ年上のシンゴちゃんは自分にはいわば大きいアニキみたいな存在で、自分の遥か彼方を進んでいる憧れの存在だった。部屋に一歩入ると、そこは70年代のロックの聖地みたいに見えた。壁にはキッス、ジミヘン、ビートルズ、ディープパープル、T-レックス、ジャニス、ディランなどのポスターやレコードがずらり、エレキギターやフォークギターが常時2~3本、でかいドラムセットがで~ん!と置いてあったり、どう弾くのか分からん民族楽器があったりと、まさに御殿場のウッドストックかアップルレコードスタジオだったのだ。

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部屋に入るとシンゴちゃんはいつも「オウ!」と気さくに声をかけてくれて、いつも何かしらのレコードをかけてくれた。どこが良いのかさっぱり分からない音楽もあったけど、シンゴちゃんは「これが良いんだ」とばかりにベッドに横たわって細い目を更に細くして聞き入っていた。そしてギターを手にとって弾き方を教えてくれた。チューニングの仕方や、3コードのロックンロールを最初に教えてくれたのがシンゴちゃんだった。自分はこの世代の人たちからロックを教わった。そしてそれは今、自分の甥や姪、子供たちに引き継がれている。

やがて自分も大きくなり、今の店を建てる時に、建設業であるシンゴちゃんや叔父に手伝ってもらった。店内のレンガ貼りや階段、左官屋が嫌がってこっちに丸投げした手塗りの漆喰壁もシンゴちゃんと自分で何日もかかって仕上げた。いわばシンゴちゃんとの合作だったわけだ。

Img_0060_3 そんなシンゴちゃんが急に亡くなってしまった。

つい1週間前まで実家の車庫を直してもらっていたのに。

心筋梗塞だった。

お見舞いに行く途中の車で訃報を聞いた。

病院に行くと目を泣きはらした彼の子供たちとすれ違った。

自分は何のなぐさめの言葉もかけてあげることが出来なかった。

奥さんに「顔をみてやってください」と言われ、シンゴちゃんの顔をのぞいた。

まるで自分だった。

幽体離脱でもしたのか、と思うほど、それはまるで自分の死に顔だった。

最後の最後までシンゴちゃんは自分にメッセージを残してくれたようだった。

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青く澄み切ったた日曜の昼に、シンゴちゃんは空に旅立った。

通夜では彼の好きだったビートルズの曲が流れたらしい。

叔父に「シンゴちゃん、残念だったね」と声をかけると、今まで見たこともない位に小さくなってしまった叔父は目をしょぼつかせて「死んじまったモンはしょうがないよな」と小さく頷いた。

自分は泣かなかった。しかしもう少しで泣きそうだった。

一家の大黒柱を失った家族の悲しみといったら、どれだけの言葉を探しても見つからないのだ。

葬式には親戚や友人が多く集まった。僧侶はモンゴルの「のど笛」のような素晴らしい声でお経を読んだ。まさに仏陀の代弁者のようだった。

親戚連中は「こんな時にしか会えないのもなんだけど」と言いながら、お互いの近況報告をしあっていた。結婚した者、子供が生まれた者、足腰がだいぶ弱まった者、引越しした者、進学した者、卒業する者、成功した者、しない者、さまざまである。

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死の悲しみにくれる一方、生の喜びも分かち合う。「お葬式」とは案外そんなものなのかもしれない。泣きながら笑うんだ。

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そしてそれは次の世代へと引き継がれていくのだ。

姪のサオパニのブログも見てやってください。

彼女から見たシンゴちゃんへの愛が綴られています。

http://blog.livedoor.jp/saopanic/

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2008年10月23日 (木)

じーじの自家製ハーブ園

カテゴリが「お世話になった方々」だが、現在もお世話になってる方である。念のため。

今回は嫁さんのお父さん、原田岩夫さん(74)だ。僕らは「沼津のじーじ」と呼んでいる。

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じーじには言葉では言い尽くせないほど、本当にお世話になっている。もちろん、沼津のばーばにもだ。沼津なので御殿場からもほど近く、仕入れも兼ねて一週間に一回は顔を出す。その度にご飯を御馳走になったり、一緒に温泉に行ったり、泊まらせてもらうことも度々なので、別名「原田旅館」とこっそり呼んだりしている。どーもすみません。

私事で恐縮だが、僕らは良い年こいて32歳の時に「出来ちゃった結婚」をして現在に至る。出来ちゃったとわかったのが、アメリカ横断初日の時だった。日本から持ってきた妊娠検査にはっきりと棒線が出てしまった。ちなみに自分がやってみると横線?が出た。さすがに二人して青くなったが、やめるにやめれないので、順子はそのまま2週間もの間、つわりに苦しみながらサンフランシスコからフロリダのキーウェストまでの7000キロを車で走破した。

旅の途中、日本の順子の実家に電話をしたのだが、まさか妊娠してるとはとても言えず、しかもアメリカ横断に順子を巻き込んでいる事へもちゃんと了解をとってなかったので、お義母さんにはこっぴどく怒られた。そりゃそーだ。日本へ帰ったらちゃんと話をしに行くと約束をして電話を切った。その時はじーじは電話に出なかったので、(やばい、めちゃめちゃ怒ってるんだろうな)と、勝手に想像しては背筋を凍らせていたが、実際にはお義母さんはじーじには何も言ってなかったらしい。順子の家は女子家系で、彼女の上に二人のお姉さん達とお義母さん、そしてお祖母さんだったので、じーじはどうも「かやの外」だったらしい。日本へ帰ってから順子の家に挨拶に伺った時も、順子が妊娠してる事を知らず、「え?妊娠してるのか」って感じだった。見ず知らずの男に娘を勝手に妊娠させられて、自分だったら「このやロー!」と胸ぐらつかんで投げ飛ばすとこだが、じーじは原田家に新しく男性陣が増えるのを内心喜んでいるような感じだった。もしこのじーじが居なかったら、今ほど原田家と仲良く付き合えただろうか、と思えるほど自分はじーじが好きだ。ある意味自分の親以上に大事な存在である。

今現在自分には二人の娘がいる。月並みだがめちゃくちゃ可愛い。しかし将来この子たちがどんな男を連れてくるのかが心底恐怖である。自分たちが好き勝手に結婚したので、子供達も将来そうなって親を泣かせることは必至だろう。これを「輪廻」というほかない。

順子の家は古いけど、清潔で格式がある。表千家のお茶教室もやってることもあり、母屋にはお茶室があって、お祖母さんがこの辺りでは有名なお茶の先生だった。お弟子さんには沼津の老舗バー「ビクトリー」のオーナーもいて、お祖母さんが亡くなった後、その方達が後を引き継いでおられる。庭には植木がなっており、その世話をじーじが担当していた。じーじは元々材木屋ということもあり、その道のプロフェッショナルだ。手先が器用で、建具やら、ちょっとした小物までなんなく作ってしまう。包丁砥ぎも上手なので店で使う包丁も砥いでもらった事もある。毎年竹細工で作る干支の動物も玄人はだしだ。自分にもじーじの100分の1位の器用さがあれば良いのに、といつも思う。

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そんなじーじにお願いしたのが「自家製ハーブ園」だった。ウチの店では頻繁にフレッシュハーブを使うが、自宅のプランターでは大きく育たないし、量も少ない。買ってくるにしてもなかなか手に入らない時もあるし、値段も高い。じーじの庭のすみっこでも良いからと、ミントとイタリアンパセリ、バジル、セルフィーユを植えさせてもらった。最初じーじは「そんなもん食べれるのかね?」と半信半疑。バジルをかじってみては「ウエ~!まじい!」と騒ぐ始末。そんなじーじをなだめては「お願いします」と丸投げしてしまった。

最初はしょうがね~な~という感じで育ててくれていたじーじだったが、あれよあれよと言う間にハーブ作りに没頭し、ナント、何十年も精魂こめてきた家の庭木も切ってしまい、根っこも取り除き、そのほとんどを家庭菜園にしてしまったのだ。今年は新たにクレソンの自家栽培に着手し、夏場の水やりに苦労しながらも、見事根付かせ、口にすると大変柔らかい食感だ。その青々として一抹の爽やかな辛さが程良く、かき揚げにすると脱帽。近所のステーキハウスまでもが貰いにくる始末だ。オイオイ、一回で良いからじーじとばーばにステーキご馳走してあげろよな、春樹さん。

去年に収穫したルッコラの種も大事に取っておいて、今年の春からプランターで芽を出させ、畑に植え替えた。おかげで現在もバジルとルッコラとクレソンがわんさか育っている。買ってくれば確かに楽だが、苦労しながら種をとり、植えて、育ててみると、もの言わぬ野菜とはいえ、命が真直に感じられ、収穫する時も「ありがとう、取らせてもらうよ」といちいち言わないと気が済まなくなってきた。よくベジタリアンが自分の好き嫌いを棚上げして「動物を殺して食べるのは野蛮、野菜を食べなさい」とうるさい事を言うが、野菜から言わせると「俺たちだって命があるんだ、痛いんだ!」となるはずだ。人間は業の深い生き物なんです、ハイ。

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ウチで使い切れない位の量がとれる時期があるので、じーじに「沼津はイタリアンが多いんだからバジルやルッコラやイタパセ安く売りましょうよ」といやらしくもちかけるのだが、じーじとばーばは揃って首を縦にふらない。無欲なんだか、心が綺麗なのか、「熱々の友達に分けてあげな」と、せっせと野菜を収穫する。お茶のお稽古にきた方たちにも快く持って帰ってもらってる。皆が口をそろえて「おいしかった」と笑顔で言ってもらえるのが一番の喜びらしい。

そんなじーじとばーばに僕たちは子供をダシに甘えっぱなしで、自分の親共々「親孝行」を未だしたことがない。最低でも生活の心配をかけないようにすれば良いのだが、それもまだまだだ。順子が「親孝行できなくてごめんね」とばーばに以前謝ったが、その時ばーばは「あんたたち子供が無事に生まれてきてくれた。そして小さいころにうんと親を慕ってくれた。それが一番の親孝行になったんだよ」と、涙がでるような事を言ってくれたらしい。

僕らが結婚したときから比べるとお互いの親は随分年をとった。自分の母親はつい最近入院してたし、以前は孫よりやんちゃだったじーじも一冬毎に体が弱っていくみたいで、冬が来るのが嫌だ。昨日も一緒に日本平動物園に行った帰り、二歳のメイを抱えて「メイが二十歳になるまで生きていたいな~」とポッツリともらした。

自分が太郎くらいだった頃を思い出す。父親が大きくてまぶしかった。母親は優しかった。

今自分たちは子供の目にどう映っているのだろう?

そして自分たちもいずれは老いて孫たちに会えるのを楽しみに待つのだろうか?

じーじの自家製ハーブ園はどうなっていくんだろう?

答えは自分の中にあるんだ、きっと。

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2008年9月17日 (水)

湖粋の奥さん

18歳の頃から3年ほど働かせてもらった「レストラン湖粋」の奥さんが先日亡くなった。

イタリアンレストラン 湖粋→ http://www12.ocn.ne.jp/~kosui/

59歳だった。自分が居た頃はもう20年前だったから、その時奥さんは39歳、今の自分たちと同じくらいの年だったんだ。店は毎日忙しく、昼夜問わずお客さんが来ていて、奥さんはその頃は主に厨房にいて、言葉は悪いが、それこそ子ネズミのようにしゃかりきになって働いていた。どちらかというと見かけは仏頂面な方だったが、心は温かい人で、はじめは怖そうだったが馴れくるとかなりキツイ冗談もお互い飛ばしあい、暇な時間にはホールに出て一緒にお茶をしたりした。

その頃の湖粋はどちらかと言うと田舎の洋食屋さんみたいな感じで、タンシチューを始めとしてハンバーグや絶品のパングラタン、チキンピカタライス、クリームボンゴレやステーキサンド、などといった魅惑的な料理がたくさんあり、それこそどれもお勧めでお客さんに「どれがおススメ?」なんて聞かれて大いに困った思い出がある。年季の入った木の温もりがある店内で、自分のお気に入りの席は真ん中の10人掛けの大テーブルだった。そこでまだ若かった高校時代の悪友達と一緒に、飲みや、食事をした事は忘れられない思い出だ。

自分の店を始める際に、真っ先に頭にイメージしたのがこの大テーブルで、スペースの関係上、位置は奥の方になってしまったが、気のあった友人たちとここで大いに飲んで食べて語り合ってほしいと願って作りあげた。

湖粋は自分が洋食の世界に飛び込んだ最初のお店で、マスターはじめ、他のコックさんや、昼に一緒に働いてたひとみさん、常連のお客さん(俳優の勝野 洋さんも常連の一人だった)達、そして奥さんからサービス業の一からを教わった。そして楽しかった。今でもなんとか店を続けていけるのも、一つのお店の理想としていつまでも「湖粋」があるからだし、サービス業の楽しさを「湖粋」で教わったからだと思う。

スタッフ割引があるのを良いことに、良く湖粋に行って飯を食わせてもらった。勉強するかのような顔つきで、シチューやらパングラタンなんかを頼むと、必ずキッチンの小窓から奥さんが顔をだしてくれ、儲からない客なのにサービスでサラダを出してくれた。サラダにそえてあったマヨネーズは自家製でちょっと弾力があって大変おいしかったのだが、そのマヨネーズ作りはいつも奥さんの担当だった。マスターと奥さんは見た目には決してラブラブではなかったが、休みの日に皆でバーベキューなんかしているときに、少し酔った奥さんがマスターの肩によりかかり、マスターは一見迷惑そうな顔をしながらも、なんとなく嬉しそうだったのが印象に残る。幸せだったんだろうな。

まだ若造だった自分の目から見ると、お店は順風満帆のように見えたが、マスター家族は店の裏にあった小さい借家に住んでいた。真面目な仕込みをしていたし、人もたくさん使っていたので、経営は左団扇という感じではなかったのかもしれない。質素な生活だった。朝お店に行って着替えるために自宅の一室を借りるのだが、そこで奥さんが縫物をしてるのを時折見たし、お店自体も無駄な事はしてなかった。二人の子供がいて、まだ小学生だったろうか、二人ともやんちゃ坊主で、良く兄弟げんかしていて仕事中に奥さんに怒られていたのも今となっては懐かしい。でもどんなに忙しくとも、子供への食事は奥さんの手作りだった。現在自分が子供がいる身になると、奥さんの子供への愛情が痛いほど良く分かる。

先日のお葬式には大きくなった息子二人がいた。真面目そうな兄貴と、やんちゃ坊主がそのまんま大きくなって髭をたくわえたかのような弟がマスターと一緒に、奥さんを見送っていた。マスターは気丈にふるまっていたが、いつもそうなので、その心情は察するにあまる。でも息子二人がきっと「湖粋」を支えてくれるだろう。そしてこれからも御殿場の名店になっていくに違いない。

自分はここ数年バタバタとしていて、なかなかマスターや奥さんに顔を出せなかった事を後悔している。お世話になった人たちなのに、自分は良く義理を欠いている事が多い。

やはり世の中は人と人のつながりなんだから、どこでつながるか分からないし、出会いを大切にしていこうと思う。

奥さん、長い間おつかれさまでした。

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