料理を作って、お客さんに食べてもらう商売を始めてから、今年で15年目に突入する。
始めた当初は、自分が使う食材がどのように作られて、どこから来たのかなんて、さほど気に留めなかった。ただただ、言われた事を夢中で作っていただけだった。少し余裕が出来たころ、少しでも安い材料を求める為に、魚河岸に通い詰めたり、三島の卸団地に行って野菜を買い求めていたりした。御殿場と比べて格段に値段や新鮮味や種類が違っていた。わざわざ車を走らせてガソリンをまき散らしていてもそっちの方が得だった。もっと余裕が出来たころ、トマトの美味しいのを探すために大井まで行き、そこのトマト農家からトマトを買っていたりもした。京都から生湯葉を取り寄せていた時期もある。
ある時、そんな仕入れのやり方に疲れてしまった。
たしかに地方の美味しい食材を一手に集めて、料理をする事はとてもダイナミックだし、魅力的だ。外聞的にも格好良い。でもそうすることで、輸送のコストがかかってしまうし、何もそこまでしなくても美味しい料理は作れるんじゃないか?って思うようになったのだ。金に糸目をつけないで材料を揃えれば美味しいに決まってるし、そんなのは一流のフレンチやイタリアンがやれば良い。彼らはその分をお会計に乗せれば済むことなのだから。悲しい哉、あくまで素朴かつ気軽なB級を目指す自分の店にとっては必要なし!と勝手に決め込んでしまった。
そして今度はできるだけ地元のお店を利用しはじめた。見まわしてみると意外にいろいろなお店がある事に気がついた。JAの野菜売り場もしかり、近所の肉屋さんや、魚屋さんや、パン屋さんと、決して種類が多いわけではないが、かといって困るわけでもない。と、いうか今ある食材を使って料理をすれば良いのだと気がついた。
そうこうするうちに、時代がだんだんエコやら地球環境などで騒がしくなってきて、自分も家族を持ち、年をかさねるにつれて、言いたくはないのだが、決め込みたくはないのだが、「健康」という病に自分も冒され始めてきた。また「国産」「外国産」というものにも世間が厳しくなってきた。
出来れば半径5キロ以内で採れた食材を使って料理をすれば、環境にもローインパクトだし、身体にも良いそうなんだ。
それじゃぁ、自分の祖母がやっていた事がベストなんじゃないか?裏の畑で野菜を作り、それを漬物にしたり、梅干を作ったり、干し柿を作ったり、イナゴやセリを採りに行ったり、かごを持って歩いて魚屋に行ったりするのが良いのか?時代はまさに逆行するんだナ。祖父の時代を孫が取り戻すわけだ。
だからと言って、じゃぁギネスはどうすんだ?ヒューガルデンは?と問われると返答のしようが無いのだが… それは勘弁してcho…
去年の夏に例の「しゃろむヒュッテ」に行ってきて、自然農や持続可能な生活とやらを勉強してきたつもりだったが、今ではその時の教えをすっかり忘れてしまっている。ごめんよ、臼井さん。覚えているのは今の世の中は「もっと、もっと」のMore-More教なので、それを「足るを知る」の「タルタル教」で行こうじゃないかって事だけだ。
「しゃろむヒュッテ」は自分の中では決して居心地の良い場所ではなかった。オーナーの傲岸無礼な態度には頭にきたし、ここはホテルやペンションと呼ばずに「自然農体験宿泊施設」か「臼井塾」にでも名前を変えた方が良いとも思っている。信者みたいのがいっぱい居たしな。自分探しをしているつもりで来たのが、まんまオーナーのイエスマンになってちゃしょーがないだろ。オーナーもそのへんは分かっているようで、「自分の言う事は正しいし、間違っている」と、言い訳のような事を最後に言っていたけどサ。
「ナツイロ」シリーズでそのあたりを詳しく書こうと思っていたのだけど、なぜか筆が止まってしまった。それを境にブログの更新が出来なくなってしまった。
理由は自分が一番分かっていた。
いくらあーだこーだ言っても臼井氏は経験者であり、自分は未経験者だからだ。「何もしてないアンタに言われたかないよ、たわけ!」と臼井のオッサンが言ってる気がしていた。
足柄で新たな公園が出来て、その一画を貸し農園に一般開放すると知ったのは今年の3月だった。
思いは「セロ弾きのゴーシュ」につながった。夏の暑いさかりにキュウリやトマトを剥く。川に下りて頭から水をかける。蝉が鳴く。猫が通り過ぎる。タヌキが顔を出す。
エコだ、マクロビだ、有機栽培だ、パーマカルチャだって事が最優先じゃない。
人間が生活する上でイチバン根っこの部分、種をまき、育て、収穫する喜びをまずは知りたいんだ。まだまだ勉強することもあるだろう。臼井のオヤジへの逆襲はそれからだ。
やったろーじゃん!
だからしばらく「足柄ノ 畑二 居リマス 侑司」 なんちゃって。
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